iPadのCMとか、すげえ悪趣味だし、なんかドヤ顔でこういうことをする企業から物買いたくないなあ…っていう気分にはなるけれども、延々引っ張るほどの公共性がある話でもないと思った。そういう件って、多い気がする。
ドラマ版『フォールアウト』もう大分佳境で、残り二話。ずっと面白い。俺がゲーム版『フォールアウト』で楽しんでいた要素がここに詰まってる。だから、自信満々で妻に勧められる。ゲームで楽しんでた「あの感覚」が味わえるだけで大満足だが、例えば「細い鉄橋の向こう側に怪しいふたり組がいて、さて、どうしよう」みたいなゲームでは味わえないタイプのシーンが個人的にはお気に入り。
ブラジリアン・プログレバンドが2016年に発表した盤。確かにサンバの要素も感じるのに、音像はポストロックのそれで、混乱したままの脳が激しく揺さぶられる名作だと思った。
誰にも共感させないし、誰にも同情させない。危うく共感したり、同情しそうになるとなると「わたし、そういうタイプの人間ではないので…」とばかりにスルッとかわされてしまう。すべての行動が、あくまで打算的でしたたかな選択の結果でしかない。そんな裏社会の話だったはずなのに、では何故辰巳はほぼ何の利害関係もない葵を救おうとしたのか。道理からポンと飛び出してしまった事態に狼狽えている、そんな台詞で物語を終わらせてみせるスマートさがここにある。
京子の話は言い訳として口の端に上るが、そもそも「仁義」なんてものすらオールドスクールになった現代の物語。「俺たちみんな、カネがない」そんな世の中で、すべては「道理」の話になる。いわゆる「家族」の論理でいえば、竜二や取り巻きは「正しい」ので、彼らの不条理な暴力に嘆いてみせたとしてもそれに抵抗する理屈が存在しない。「優しさ」は鍵となるが、ふとこぼしてみせた「お前はいい奴だからな」という台詞(行間に「俺とは違って」が隠れている)からも分かる通り、無私の優しさは理屈に合わない。理解が出来ない。
冒頭からまるでクライマックスのような風の音。シャブ中だった弟の死がぶっとい補助線。本来組織に属しているはずの人間が、守るべきと組織に決められた倫理とは外れた、もう一つの倫理をずっと心に秘めていて、ふとしたきっかけにそれが爆発してしまう。そのトリガーを引くキャラクターとして、周囲に文字通りツバを吐き続ける葵のクズさ、手のつけられない横暴さは必然のように感じた。役者は総じて素晴らしかったが、ここは特に森田想さんの役割が非常に重要だったと思ってる。
俺たちの上海小吃が、ヤクザの根城に変わる。ディアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』とか、ナ・ホンジン『哀しき獣』、そして何と言ってもヤン・イクチュン『息もできない』のような、アジアンノワールの系譜に堂々と名を連ねる傑作。劇中でたった三回、流れる涙が持つ別々の意味を、ずっと咀嚼していたい。
ようやく初めて井上尚弥の試合を(ほぼ)リアルタイムで観れた。第1ラウンド、びっくりするぐらい硬かったので何があったのかと思ったんだけど、ダウンしてからゆっくりカウント待ってから立ち上がって、後半調子を上げ、第2ラウンド以降は完全に場を支配してしまった。そこからは、いつ、如何に、倒すか、というショー。一試合通しで観たのは初めてだったので、圧倒されてしまった。「トドメ!」という感じのラストの右も見事。そらみんな熱狂するわな、とGW最終日に納得してた。
下高井戸シネマでビクトル・エリセ『瞳をとじて』。またしても満席。『悲しみの王(Triste le Roi)』と呼ばれた邸宅が粗い16mmフィルムに焼きつけられており、その時点でなんというか、もう、ガッツポーズというか。これだけの年月を経ても、『ミツバチのささやき』『エルスール』と地続きの質感で安心して観られるというか。「瞳をとじて」というタイトルが見事で、「映画」という視覚メディアをして、「瞳を閉じる」という行為が何を意味するのか、という当事性が潜んでいる。視覚を遮断する代わりに、